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尾藤義昭について

地域に活力を。

私の考え
  • 市民を守る医療体制の充実

  • 子育ての支援体制を充実

  • 高齢者、障がい者福祉対策の充実

  • 新たな工業団地の実現による雇用の確保

  • 有害鳥獣への対策強化

尾藤義昭
略歴

 

昭和21年生まれ。
関高校、中京大学商学部卒。
高校時代は空手、大学時代には応援団で青春の日々を送る。    

昭和45年〜

松野幸泰衆議院議員(当時)秘書を務める。
昭和57年〜
関市議会議員を2期務める

平成2年
岐阜県議会選挙に2度落選するも、うどん屋で生計を立て、家族を養う。

平成3年〜
岐阜県議会議員初当選。その後5期務める。
中農厚生病院に救命救急センターを設立するなど、関市の問題に精力的に取り組む。

平成20年
関市長選挙にて当選。

 

平成27年
岐阜県議会議員当選。

政治家を志した理由
友人の子どもが病気になったときに、市では受け入れてもらえず、隣町に運ばれたことから地域間の医療の格差を感じた。
「解決するのが政治の仕事だ」と政治家を志す。

好きな言葉 絆、人情 

モットー  現場第一主義!とにかく現場を知る事!

趣味    料理

家族    妻・娘3人

尾藤義昭

サッチャー元イギリス首相とともに

生い立ち・経歴

 

昭和21年2月14日
関市に5人兄弟の三男として生まれる。

    
昭和36年

関高校に進学。高校時代はスポーツ万能でバスケットボールに打ち込む。

 

昭和39年

高校を卒業後大学進学を目指すが、家庭の事情で学費を払えず断念。東京のガラス工場で働く。 

 

昭和40年

学業への思いは熱く、自ら学費を貯めて中京大学商学部へ進学。

 

大学時代

大学時代には規律の厳しい応援団に所属し、肉体的、そして精神的に成長する。
『多くの仲間に恵まれ、生涯の友と絆ができた。』

そんな時関市に戻った際に政治家を志すきっかけとなる出来事が起こる。
友人の子どもが病気になり、一刻を争う事態に、必死で市の病院を回る。
しかしどこにも受け入れてもらえず。当時は市内に救急患者を受け入れる施設が無く、たらい回しになるのが現状だった。
『これではいけない、助かるはずの命が助からない。』
関市になんとしても救急救命センターを造るんだと決意。

昭和45年

卒業と同時に松野幸泰衆議院議員(当時)秘書に。
松野代議士と一緒に多くの現場を足で回り『現場第一主義』を学ぶ。

 

昭和57年

関市議会議員当選。2期務める。

 

平成2年

岐阜県議会議員を目指し出馬するも2度の落選。
落選後は関市内に飲食店を開業。
(その後、6店舗・従業員33名を迎える) 
政治活動を続けながら経営者としても活躍。

 

平成3年

岐阜県議会議員当選。4期16年を務め、5期目に入ったところで市長選に出馬。
県議時代、中農厚生病院に念願の救命救急センターが設立される。
一貫して関市と周辺地域の発展に精力的に取り組む。

 

平成17年

長良川中央漁業協同組合 組合長に就任

 

平成20年

関市長選当選。

 

平成23年

2期目の関市長選に惜しくも落選。

 

平成27年 4月

岐阜県議会議員当選。

 

現在

岐阜県議会議員
長良川中央漁業協同組合 組合長 在職中。

尾藤義昭

少年時代(右から2番目)

尾藤義昭

バスケに打ち込んだ高校時代(右側)

尾藤義昭

大学時代は規律の厳しい応援団へ所属

尾藤義昭

松野代議士の秘書時代

尾藤義昭

飲食店を開業

尾藤義昭

現在の救急救命センター

尾藤義昭

東日本大震災を受け、被災地へ救助活動に出発する消防隊員らを激励

尾藤義昭

現在

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